「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」という格言を聞いたことがあると思います。
これはドイツの名宰相であるオットー・ビスマルクの言葉です。
愚かな者は経験からしか学ばない、と解釈できます。
すなわち、未来を知りたければ過去を学ぶ、歴史を学ぶことが近道だと言うことです。
FIREを実現させるためには、まず歴史を学びましょう!
今回は、古代史を取り上げました。
通勤時間の10分で分かるようにまとめましたので、最後までお付き合いください。
では始めます。
日本列島にたどり着いたホモ・サピエンス:祖先が縄文時代の狩猟採集の移動生活から定住生活に
移り、邪馬台国が栄えた弥生時代、権力を示すためにつくられた古墳時代、仏教にすがるように
なった飛鳥時代、何度も遷都をおこなった奈良時代、貴族社会の平安時代の歴史を見ていきたいと
思います。
出典:「地図でスッと頭に入る古代史」瀧音能之氏薯
旧石器時代
| 特徴 | 西暦 | 登場人物 | 主な事象 | 備考 |
| – | 約25~30万年前 | ホモ・サピエンス | アフリカで現生人類が誕生。(ホモ・サピエンス) | ミトコンドリア・イブが現生人類の最も近い共通女系祖先に対し名付けられた愛称。約16±4万年前にアフリカに生存していたと推定され、アフリカ単一起源説を支持する有力な証拠の一つである |
| 人類の日本渡来 | 約4万年前 | – | 人類が日本へ上陸 | ナウマンゾウ・シカを追いかけてアフリカからやってきた。狩猟採集生活を営む。 |
| – | 約1万8000年~ | – | 氷河期がおわり、地球温暖化がはじまる。 | – |
縄文時代
| 特徴 | 西暦 | 登場人物 | 主な事象 | 備考 |
| – | – | – | – | |
| 日本への長旅 | 約1万年前 | – | 氷河期がおわり海面上昇、日本海ができる | 縄文人はサハリンや朝鮮半島など多方面からやってきた。 |
| – | 約6000年前 | – | 温暖化が進む | – |
| – | 約5000~4000年 | – | 大規模な集落がつくられる | 狩猟採集の生活から、食物が育つようになり、縄文土器をつかった食生活を豊かにした。竪穴住居により定住生活がはじまる。 |
| – | 約3000年前 | – | 水田稲作の技術が伝来 | 定住者が増えてムラがつくられた。 |
| – | 約2400年前 | – | 弥生時代へ | 道具の製造ができるようになり釣り針や弓矢、網をつくり、魚介類・貝類や海藻を捕獲・収穫する |
弥生時代
| 特徴 | 西暦 | 登場人物 | 主な事象 | 備考 |
| – | 紀元前3世紀 | – | 青銅器や鉄器が大陸から伝わる | 危険をおかしながらも長距離を移動するようになる。 |
| 弥生人登場 | 紀元前1世紀 | – | 国内にクニが100ほどできる | 社会に格差が生まれる。 |
| – | 57年 | – | 奴の国王が後漢の光武帝から印綬をもらう | 朝鮮半島からしょうゆ顔の弥生人がやってくる。ソース顔の縄文人との混血がはじまる。 |
| – | 107年 | – | 倭国王の師升(スイショウ)が後漢へ奴隷を献上する | ムラから約100のクニがつくられ、集落をまとめるリーダー(首長)が現れる。 |
| 戦争のはじまり | 147~189年ごろ | – | 小国同士の争いが頻発 | クニ同士の争いがはじまり倭国大乱と呼ばれる。いわゆる戦乱のはじまり。 |
| – | 239年 | 卑弥呼 | 邪馬台国の女王・卑弥呼が魏に使者をおくり金印をもらう | ヤマト政権が支配をひろげ、争いを納めるために、卑弥呼が邪馬台国の女王になる。卑弥呼はみこのような存在で鬼道をつかい争いをしずめた。 |
| – | 248年 | – | 卑弥呼が没後、壱与(いよ)が女王になる | – |
| – | 266年 | – | 壱与(いよ)が西晋(セイシン)に朝貢する | – |
古墳時代
| 特徴 | 西暦 | 登場人物 | 主な事象 | 備考 |
| – | 3世紀半ば | – | 前方後円墳が出現 | 古墳は権力の象徴であった |
| 大和政権 | 4世紀 | – | 日本初の計画都市「纏向(まきむく)」が建設 | 大和政権の発祥の地。纏向遺跡が邪馬台国の中心だった説もある |
| – | – | ヤマト政権による日本統一 | – | |
| 朝鮮進出 | 4世紀末 | – | 河内平野に古市古墳、百舌鳥古墳形成開始 | 中国の史書に4世紀に関する記載なく謎になっている |
| – | 391年 | – | ヤマト政権は百済・新羅に侵入 | 百済や伽耶(かや)と関係をよくし鉄資源を得ることが狙いだった |
| – | 5世紀 | – | 大仙陵古墳が建造される | 日本最大級の前方後円墳は「仁徳天皇陵」 |
| – | 404年 | – | ヤマト政権が高句麗軍に撃退 | – |
| 倭の五王 | 421年 | 倭の五王 | 倭王の讃(さん)が宋に遣使する | 宋の皇帝に朝鮮半島の軍事的支配権を認めてもらうために、10回に渡り使者を送った。 |
| 巨大古墳の登場 | 5世紀半ば | – | 大規模な古墳が各地に出現する | – |
| – | 438年 | – | 倭王の珍(ちん)が宋に遣使する | – |
| – | 443年 | – | 倭王の済(せい)が宋に遣使する | – |
| – | 462年 | – | 倭王の興(こう)が宋に遣使する | – |
| 独立地方勢力 | 471年ごろ | – | ヤマト政権の勢力が関東から九州に及ぶ | – |
| – | 478年 | – | 倭王の武(ぶ)が宋に遣使する | 皇帝は倭に軍事的支配権を認めず、倭は使者の派遣をやめる |
| 皇統断絶の危機 | 507年 | – | 越(こし)の国出身の大どの王として迎い入れられ継体天皇が即位 | 高齢で地方出身の継体天皇は、大和入りするまで20年かかる。大伴金村や物部アラカヒの豪族が反発したといわれる。 |
| – | 512年 | – | 大伴金村(おおとものかなむら)が朝鮮半島の任那(みまな)4県を百済へ | – |
| – | 526年 | 継体天皇 | 継体天皇が大和へ入る | – |
| 史上最大級の乱 | 527年 | 筑紫君磐井 | 磐井の乱(大和政権の反対勢力:筑紫の君磐井 | 大和政権から過度の軍事負担に対し反発、史上最大級の反乱? |
| – | 528年 | – | 朝廷軍が磐井を討ち反乱と鎮圧 | ヤマト政権の追討軍に鎮圧される |
| 仏教伝来 | 538年 (上宮聖徳法王帝説) 552年(日本書紀) | – | 軍事援助の見返りとして日本に仏教が伝来する | 八百万(やおよろず)の神々が崇拝されていた日本に、インド・中国・朝鮮半島から仏教が伝わる。日本書紀によると、当時、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が争っており、百済は日本に軍事支援を要請していた。これに欽明天皇(けんめい)が応じて兵士や武器を送ると、その見返りとして百済の聖明王は、医・暦・易などの学者や薬・楽人などの時代の先端をいく文化の産物を贈ってきた。その中に、1体の仏像(金銅仏)と経典があった。これが仏教の初伝とされている。 |
| – | 562年 | – | 新羅が伽耶(かや)を滅ぼす | – |
| 仏教論争 | 587年 | – | 蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす | 仏教をめぐり豪族の蘇我氏(仏教崇拝)と物部氏(非崇拝)が対立 |
| – | 6世紀末 | – | 古墳の規模が縮小される | – |
飛鳥時代
| 特徴 | 西暦 | 登場人物 | 主な事象 | 備考 |
| – | 592年 | – | 崇峻天皇(すしゅん)が蘇我馬子に暗殺される。推古天皇が即位する | 女性の推古天皇の時代を飛鳥時代という。聖徳太子と蘇我馬子とともに政治を行う。太子はまだ幼く皇位継承をするこはなく、その後も即位の機会があったが豪族の思惑が錯綜し、推古天皇が即位した。 |
| 聖徳太子の活躍 | 593年 | 聖徳太子 | 聖徳太子(厩戸王子:うまやとのおうじ)が摂政に就任する | 仏教を積極的に受け入れ国づくりを推進した。その結果飛鳥文化が開花した。 |
| – | 600年 | – | 第1回遣隋使が派遣される | 中央集中政権体制を整えていく |
| – | 603年 | – | 聖徳太子が冠位十二階を制定 | – |
| – | 604年 | – | 聖徳太子が十七条憲法を制定 | – |
| 遣隋使派遣 | 607年 | 蘇我馬子 | 第2回遣隋使として小野妹子を派遣。法隆寺が建設される。 | 中国への派遣は倭の五王から百数十年ぶり。遣隋使は5回行った。 |
| – | 630年 | – | 第1回遣唐使が派遣される | 派遣は630年~894年まで、約20回にかけて計画。遣唐使船での渡海は命がけだった。派遣で唐から得たものは、最新の文物、唐の政治、仏教知識を持ち帰り、空海や最澄(サイチョウ)のように日本独自の宗派をひらいた |
| 蘇我氏の権力増大 | 643年 | 蘇我入鹿 | 蘇我入鹿が山背大兄王(やましろのおおえのおうじ)を自害に追い込む | 太子、推古天皇が亡くなると蘇我氏が政権を牛耳るようになる。 |
| 乙巳の変(いっし) | 645年 | 中臣鎌足 | 中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を殺害。大化の改新がはじまる | 中大兄皇子のクーデターで大化の改新が実現。蘇我馬子が作成した戸籍は、改新で作成された戸籍・計帳の制や班田収授法につながっている |
| 大化の改新 | – | 大化の改新と呼ばれる政治改革がはじまる | ・公地公民制の実施:土地や人民の私有を廃止 ・地方制度の整備:国・群・里など新しい行政区画を採用 ・班田収受の法の施行:戸籍・計帳をつくり、 田を人民に分けあたえる ・税制改革の実施:土地にかかる税金を中心に税制を開始 | |
| 日本初の対外戦争 | 663年 | – | 白村江の戦で日本が唐、新羅連合軍に敗退 | 日本は朝鮮半島での影響力を失う |
| – | 667年 | – | 近江の大津宮へ遷都 | – |
| – | 668年 | 天智天皇 | 中大兄皇子が天智天皇に即位 | 日本発の全国戸籍「庚午年籍」こうごねんじゃく、法典「近江令」おうみりょうを制定する |
| 壬申の乱 | 672年 | – | 壬申の乱で大海人皇子(おおあまのおうじ)が大友皇子を倒す | 天智天皇の後継者争いがはじまる |
| – | 673年 | 天智天皇 | 大海人皇子が天武天皇として即位 | 天皇中心の国づくりを推進した |
| 天武天皇の政治 「国」となる | 689年 | – | 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)が施行される | 刑罰を定めた「律」と行政を定めた「令」に基づく政治を行い国の体制を整えた。八色の姓(やくさのかばね)という姓制度をつくる。 |
| – | 690年 | 持統天皇 | 持統天皇が即位 | – |
| – | 694年 | – | 持統天皇が藤原京へ遷都 | – |
| – | 701年 | – | 大宝律令が制定される | 二官八省の官僚体制や地方行政組織を規定した日本発の本格的な法律で、政治の仕組みが整い日本は国になった。 |
奈良時代
| 特徴 | 西暦 | 登場人物 | 主な事象 | 備考 |
| 政争、疫病の社会。律令体制の中央集権国家 | 710年 | 藤原不比等 | 元明天皇(ゲンメイ)が藤原京を平城京へ遷都する | 唐の都長安がモデルで「四神に守られた吉祥の地」という理由から遷都。また当時の権力者である藤原不比等(フヒト)が飛鳥から都を遠ざけたかったとの説もある。遷都後、政治は落ち着かなかった。約7割の住民が行政の関係者とその家族の都市だった。人口は推定5~10万人。 |
| – | 712年 | – | 古事記が完成 | – |
| – | 720年 | 桓武天皇 | 日本書紀が完成 | – |
| – | 724年 | – | 聖武天皇が即位 | – |
| – | 729年 | 長屋王 | 長屋王(ナガヤ)が反逆の疑いを掛けられ自害に追い込まれる | 不比等が他界後、皇族であった長屋王が左大臣として実権をにぎったが、不比等の子、4兄弟の陰謀で自害に追い込まれたとされている。 |
| 藤原四子の政治 | 737年 | – | 天然痘(テンネントウ)の流行で藤原の四兄弟が相次いで亡くなる | 藤原四子:武智麻呂(タケチマロ)/房前(フササキ)/宇合(ウマカイ)/麻呂は、それぞれ南家(ナンケ)・北家(ホッケ)・式家(シキケ)・京家(キョウケ)の祖となり政治は安定していた。藤原四子の政権は、政府の財源である稲を国税とし、また治安を改善するため警察・郡司体制の強化をはかる。しかし九州の大宰府管内で天然痘が流行し、都まで拡大し四子は感染し亡くなる |
| – | 740年 | – | 藤原広嗣(ヒロツグ)の乱 | 大宰府に左遷されていた広嗣が新体制に不満を持ち決起するが、朝廷軍、橘諸江(モロエ)氏政権によってあっけなく鎮圧される |
| 聖武天皇と鎮護国家(チンゴ) | 741年 | – | 国分寺・国分尼寺(ニジ)建立の詔(ミコトノリ) | 740年から聖武天皇が彷徨ををはじめる。聖武天皇は仏教の力で社会不安を鎮めようとした。これを鎮護国家という。全国に国分寺を建て国を守ろうとした |
| – | 743年 | – | 聖武天皇が大仏造立の詔をだす。 | – |
| 奈良仏教 | 752年 | – | 東大寺の大仏完成。開眼供養が行われる。 | 奈良時代の仏教は、奈良(南都)を中心に南都六宗とよばれる三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗で宗派というより学派であった。民間への配布が禁じられていたので、民衆へは、国から公認されていない私度僧とよばれる僧侶がひろめた。 |
| – | 753年 | 鑑真 | 鑑真(ガンジン)が唐から来日する | 日本仏教の発展のため、唐からやってきた高僧が鑑真。当時の日本は、僧侶になると税金を納めなくてよいため尼や僧になるものが続出した腐敗が進んでいた。そこで政府は鑑真を呼んで仏教の立て直しをはかろうとした。しかし弟子の密告や暴風雨などで6回も渡航を試みようやく来日した。 |
| – | 757年 | 藤原仲麻呂 | 橘奈良麻呂(タチバナナラマロ)の変 | 橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。 |
| – | 758年 | 道鏡 | 孝謙天皇(コウケンが淳仁天皇(ジュンニンに譲位し、上皇となる。藤原仲麻呂が恵美押勝(エミノオシカツ)の名を得る | 道鏡が孝謙天皇の病気を治癒させたことを機にかわいがり仲麻呂の権力は弱まる。 |
| – | 760年 | – | 恵美押勝の乱がおこる | 仲麻呂は逆転をねらいクーデターを計画したがやぶれた。 |
| – | 765年 | – | 道鏡(ドウキョウ)が太政大臣禅師(ダイジョウダイジンゼンジ)になる | 道鏡は天皇の地位を狙った悪僧とされているが、そのイメージを定着させたのは藤原氏の可能性が大。 |
| – | 766年 | – | 道鏡が法王になる | – |
| – | 769年 | – | 宇佐八幡宮(ウサ)神託事件(シンタク)がおこる | 大宰府から朝廷に「道鏡を天皇にすれば天下は安泰になる」という神託がもたらされる。 |
| – | 770年 | – | 道鏡が失脚し、下野の国の薬師寺別当へ左遷 | 悪評の一方、失脚後の下野国(栃木県)では薬師寺別当として仏教の理念に基づいた善政をしいたと伝わり、道鏡の墓と伝えられる古墳がある。(道鏡塚) |
| – | 784年 | 桓武天皇 | 桓武天皇が長岡京へ遷都 | – |
| – | 785年 | – | 藤原種継(タネツグ)が暗殺 | – |
| – | 794年 | – | 桓武天皇が平安京へ遷都 | 奈良時代の幕が閉じた |

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